人見知りをなおす方法

昨日、講義を受けに鹿児島まで行ってきた。

皆初対面の方ばかりだったが、とても優しい方々で、とても楽しい時間を過ごさせて頂

いた。ここ1年ずっと色んな場所に勉強をしに行っていて、新しい友人が結構増えた。

色んな人との出会いがあるというのは刺激になるし、とても楽しいものだ。

病院で給料明細を見てニヤニヤしながら働いていた頃は、毎日が疲労困憊で、学びにも

消極的だったし、知らない人達の集まりに入るのに居心地の悪さを感じて、友達が一緒

でないと安心してそこにいることもできなかった。

今となっては、「人見知りをする」という自己認識もどこかへ消え去ってしまった。

前だったら言えないようなことも言えるようになった。

例えば、最近行き始めた講義があるのだが、たまに参加できないこともあり、そこの仲

間でLINEグループが出来ていることを知らなかったのだ。それを小耳に挟むという形で

知ったのだが、「え~!私グループできてるの知らなかったよ。入れてもらってい

い?」と言えたことである。

以前の私なら、まず自分から「私もグループに入れて」なんて言えなかったし、「私は

別に入らなくていい」という顔をしていたに違いない。

ここで言いたいのは、グループに入ることが重要なのではなくて(私も普段

は個人行動ばっかりだし)、自分がとりたい行動をとれるかとれないか(相手の行動を

待つことしかできないか)という話なのである。

是非人見知りをどうにかしたい方は誰も知らない人ばかりの集まりに頻回に顔をだすと

いい。特に勉強会や趣味などの集まりは共通点があるので話しやすいのでお試しあれ。

職場で見かけた面白い指導

運動会の練習の時、何十年もその仕事をしてきている人が一年目の新人に

「昔はもっと人数も少なくて大変だったけどお互い阿吽の呼吸で業務をこなしていた。

もっと空気をよんで動かなきゃ」

というような何とも不思議な内容の指導をしていたのを目撃した。

果たして全ての行事が初めての新人に空気を読んで動くことは可能なのだろうか・・・

このベテランさんは、新人と阿吽の呼吸で仕事をする目標を掲げているのか・・・

阿吽の呼吸の前に、マニュアルを作成するとか、行事の役割表を早めに配布するなどした方がよくはなかろうか・・・・

などと思いながら話を聞いていた。

そして、その新人さんも落ち込んでると思いきや

「あの人も言ってることは確かなんですよね」

と、どこから目線か分からない発言をしているのがとても面白かった。

お互いが阿吽の呼吸で働くべきだと思っているのなら問題ない。

私も今年初めて保育というものに携わったので、同じように空気を読んで動くことを求

められたのだが、そんなことは無理なので諦めて貰うしかない。

しかし、どこに配置していた方がいいかその都度確認すると機嫌が悪くなって

しまう。まあ本人も余裕がないのだろうけどね。

確かに、前の職場でも

「私達が一年目の時はもっと頑張っていた」

「私はもっとできていた」

というような事を言っている人もいたし、私もそう思っていた時期があった。

でも多分それは記憶違いだろう。

記憶は自分の都合のいいようにつくりかえられるものだ。

“仕事を出来ない自分はダメ”だと思っている人ほど出来なかった昔の記憶は歪められて

いるのではないだろうか。

もし新人の時の録画があるよと言われても、見栄を張りたければ部下に見せない方が身

のためである。

ショックを受ける可能性が高いことは間違いない。

なんたって本人はもっと仕事ができた自分(阿吽の呼吸とか)を心から信じているのだ

から。(記憶が間違っているとは思わないもんね)

 

 

 

 

 

 

 

 

保育 コミュニケーションでの勝負は勝っても負け

あなたは子どもから何か言われて腹が立った経験はあるだろうか?

私はあまり子どもと関わる人生を選んでこなかったが、保育園で働いてみると、

たまに“どうやらこの子は私に対してムカいるようだ”というような挑発的な態度

をとられることがある。

もし、私が子どものその態度にイラッとして、反射的に怖い顔をしたり、口調が荒く

なったり、お仕置きをほのめかすようなことを言ったり、この子はこういう子だという

ダメな子レッテルを貼ったとするならば、その子と私の間に信頼関係が築かれることは

ないだろう。

そう思い冷静に真摯に対応しようと心がけているが、これがなかなか難しい。

ついトゲのある物言いになったりすることもある。

これは、私が園児たちの態度に“バカにされた”“私のことを見下している”などの意味づけ

(無意識での自分なりの解釈)をして、“皆のためにこっちも頑張っているのに💢”と勝

手に傷ついてトゲのある言い方をするという態度をとったという一連の流れである。

つまり、相手の反応に自分がどういう意味づけをするかで感じる感情もその次に起こす

行動も変わってくる。

ちなみに、「あなたのために」という名目で感情的に怒っている人もいると思うが、決

してそれは相手のためではない。

相手が自分の望む行動をとるようコントロールしたり、自分を正当化するために、相手

を威圧するような態度をとったり、お仕置きをほのめかしたり、相手に「こういう子

(人)」というレッテルを貼ったりするのだ。

つまり、自分のためである。

「ああいう風に厳しくされたから今の自分がある」と自分に言い聞かせている人は、そ

の当時されて嫌だった態度を、今度は自分が他者にしている可能性があると思う。

それにしても、人のために何かをやっていると考えると、どうしても相手の態度によっ

てムクムクと嫌な気持ちが沸いてきてしまうものだ。

そして、相手を言い負かそうが、相手の行動をコントロールしようが良い気持ちにはな

らないもので、結局負けたも同然である。

そこで、私は相手のためという考え方を手放すことを意識するようにしている。

例えば、午睡時に寝かせつけのためポンポンしていると「先生いや!あっちいって。

〇〇先生の方がよかった」などと悲しいことを笑いながら言われたとしてもイラつく必

要はない。その子が他の先生を希望しているだけなのだから、「〇〇先生がいいんだ

ね。先生にポンポンしてって言ってきてごらん。そう言われたらきっと先生も喜ぶよ」

と私の場合言ってみたのだが、伝えるコツは本心で伝えることだ。

勿論「向こうがいいなら自分で言え!私は頼んでやらないぞ」と意地悪な気持ちで言っ

たのではなく、自分で望むものを自分で行動して得ることが自信をつけるための大切な

プロセスになると思ったから自分で依頼することを勧めた。

結局その時は、その園児は私の腕を引っ張って「ポンポンして」と私に依頼してきたの

だが、結果はどうでもいい。

自分が何の為にそれをしているかさえ意図してればいいと私は思う。

だから例えば、子どもが「先生くさ~い。何でそんなにくさいの~」などと言ってき

た時も言い負かす必要はない。

「くさい思いをさせてごめんね。誰も言ってくれなかったからあなたが言ってく

れて助かったよ」

と笑顔で本心から伝えればいい。

(その子どもにとっては本当にくさかったのかもしれない)

もしくは、「私はあなたからそれを言われて悲しいんだけど、私も何かあなたを嫌な気

持ちにさせることをしちゃったかな?」と聞いてみればいい。

案外、大人にとっての「そんなこと」は子どもにとって重大なことだったりする。

そういう気持ちで向き合うと、子どもはそれ以上傷つくようなことは言ってこないもの

で、子どもを自分と対等な人間という気持ちで関わるのはとても大切なことだ。

 

 

 

保育の不思議 苦手な食べ物を食べれた事を喜んでいるのは子どもじゃなくて保育士?

私は保育園で働いているが、保育園には色々な不思議がある。

今日は給食について書こうと思う。

子どもの成長にとってバランスのよい食生活はとても大切なことである。

しかし人間嫌いな食べ物もあろう。

特に子どもは大人よりも味や食感や見た目に敏感である。

また、親の好き嫌いに影響を受けることもあるし、嫌な記憶と結びつくとその食べ物が

嫌いになりやすい。

だから「食べなさい!!」と強い口調で言うことや、やたらガッカリした態度を子ども

に見せつけることは効率的ではないどころか、子どもにとって害にしかなってないと思

う。なぜなら「苦手なものにチャレンジできないあなたは受け入れられない」と言われ

ていると子どもが解釈してもおかしくないからだ。

で、保育のプロはどんな対応をしているのか勉強させて貰おうと思っていたが・・・・

やたら食べれないことに対し頑張ることを強要しているように見える。

そしてやたら「小学校になったらあなたが困るよ」ということを子どもに言っている。

なぜそこまでして食べさせたいのだろう。

困るのがその子であって、あなたでないのなら余計にそこまで頑張ることを強要する必

要もなかろうと思うのである。

この「あなたのために」という前提で嫌なことを強いられるほど迷惑な話はない。

大人であれば「困るのは私なのでほっといてください」と対応すればいいが子どもはそ

ういうわけにもいかないのでさぞ辛いだろう。

小学生から困ればいい問題(困るかどうかも分からないが)に対して、この子達は保育

園から困っているように見える。

そして、子どもが頑張って食べた時に保育士が「すごいね~。全部食べれたね~」と

褒めることで相手に達成感や頑張ることの素晴らしさを感じて貰おうと思っているのか

よく分からないが、子どもは嬉しそうにしておらず複雑な表情をしている。

すると、当たり前だが次の食事でも自発的にチャレンジせず「やればできるから」と言

われながら、頑張ることを強要されている。

私は子どもが「減らしてください」と言ってきたら、減らすようにしている。

そして、全く食べてないおかずがあった時は「どれくらいだったら食べれるかな?」

「このおかずの中で食べれそうなもの(食材)ない?」と聞くように意識しているが、

これは子ども達が自分で食べれると思った量を目標にした方が達成感もあるだろうし、

自分がして欲しいことを依頼(主張)できることはとても大切なことだと思うからだ。

そして、何より安心して楽しみながら食事をして欲しいし、大人の顔色をうかがう癖な

どつけてほしくない。

勿論子どもが「一口も食べたくない」「がんばれない」という事もある。

それはそれで受け止めてあげればいいじゃないか。

子どもが食べれるようになりたいと思ってない時点で、無理に食べれたとしても達成感

を感じることは難しいと思う。

大体どうしても食べて欲しければ、作る側も味付けや見た目を変えてみるなど工夫を

すべきであり、こちらはなんの工夫もせず、相手にだけ頑張ることを強要するのはいか

がなものかと思うのである。もちろん給食ではそんな工夫は無理なので家で工夫でもし

てもらったらいいのだ。

私だって梅干しを食べれないが、それで困ったことも不健康になったことも一度も

ない。そして、梅干しにチャレンジしなかったからといって、全てのことに対してチャ

レンジしないという態度が身についたわけでもない。 

なぜそんなに食べさせたいのか・・・・・保育士ではない素人の私には分からない理由

があるのかもしれない。

私に勇気が舞い降りた際には是非聞いてみたい。

 

 

 

幸せの法則

過去にあんなことがなければ

もし違う両親に育てられていたら

もっと周りにわかり合える人がいたら

あの時違う選択をしていたら

もっと若ければ

人より優れた知能や才能があれば

恵まれた環境だったら

情熱がもてる何かがあれば

前世でもっと徳を積んでいれば

 

自分の人生に満足できない理由を外に探そうと思ったらいくらでも見つかる

何かのせいにして自分を正当化してしまえば楽になれる気がするのに、気づけば同じよ

うな葛藤の中にいて葛藤のループからでることはできない。

 

結局のところ、自分以外に自分を幸せにすることも不幸にすることもできない。

外にあるもの、他者や環境や起こった出来事が自分に影響して今の自分が出来ているの

は事実。

でもそれと自分の幸せや満足とは全く関係ない。

自分が欲しいものを手に入れる為のプロセスを歩く選択をするのか、それを放棄する選

択をするのか。

必要なのは色々なリスクや幸せの可能性を背負う覚悟だけだ。

最近感じたことだが、覚悟がもてればその結果が手に入るかどうかにはあまり執着しな

くなるようだ。

結果よりもそのプロセスを歩くことに人生の意味があるということに身体が気づいてき

ているのかもしれない。

輪廻転生するといっても私としての人生は一度きり。

すべての可能性を来世に丸投げして、周囲の反応や老後の心配だけして生きることもで

きるけど、色んな責任を背負って限りなく自由なプロセスを歩きたいものだ。

 

 

 

生きることを修行と考える方が幸せだ

人生は楽しくするものだ、幸せになるものだという視点で生きると、平凡な毎日はとてつもなく退屈な日々となる。幸せや成功の度合いを人と比較して、安心したり、妬んだり、自己卑下したり、焦ったり・・・なんだか幸せからどんどん遠ざかるような気がする。しかし、人生は修行の場だ!修行(成長)したくて生まれてきたのだと考えると、平凡な毎日は「え?修行なのにこんなに楽しちゃってもいいんすか」てな感じに変貌する。スタバのカフェラテを飲んでるその時間すら修行なのだ。ライン漫画を読んでるその時間すら修行なのだ。修行がこんなに甘くてよいのだろうか。仕事でチャレンジしたが「なんやかんやでスムーズにいかないな・・・・大丈夫かこれ?」という時すら「まっ、人生修行だし上手くいかないこともなくちゃ修行にならないかもねっ!」と人生を楽観視できるものだ。どうにもならなかったら、「頑張ってみたが失敗して無職になった。今度は違う方法を考えよう。何しようかな?死ぬまでにもう少し人の役に立てればいいが」でいいのだ。だって修行だもん。元々大変な修行をしに来たと思えば、多少なりとも深刻にならずに“人生そういうものなのだ”で済む。上手くいこうもんなら大分幸せを感じることもできるし、わざわざ人と比較して一喜一憂する必要もない。(全く同じ能力で同じ環境、同じスタートなどないのだから本来比較出来るものもなければする意味もないのだが)

幸せなんぞ求めない方がよっぽど幸せになれる・・・というか気づけるもんだと思う。

 

 

やめたいのにやめられないは『やめられる』けど『やめなくてもよい』

こんばんは~

スピリチュアルカウンセラーのacoです✨

自分らしい生き方(絶対自分主義)の応援をすることを仕事にしています。

で、今日のテーマは、

『やめたいのにやめられない』

例えば・・・

「タバコ」

「過食」

なんかはよく「禁煙失敗した」「ダイエット失敗した」という形で経験した人も多いと

思います。

私も9年前まで、かなりのチェーンスモーカーで、何回も禁煙に失敗したんですが、最

後にした禁煙が一番楽ちんだったんです。

 

「やめられない」ではなく「やめたくない」が本当

今、心理を学び思うことは、やめれなかったんじゃない。やめない選択をしてたんだな

~ということ。つまりやめる気がなかったんです。

「そんなことない!!本当にやめたいのに苦しいからやめられないんだ」

という人もいると思います。確かにそうです。やめたいんですよ表面上は。ただやめた

くないという本心が勝っているというだけ。

しかも、人間はとても素晴らしい機能を持っていて、その目的(やめない)のために沢

山のストレスを創り出します。ストレスがあるからやめれないのではなく、やめたくな

いがストレスを創り出すのです。やめないためにわざわざ。

イライラする・口寂しい・集中力が低下するやらなんやら言って「こんなにストレスが

かかるならかえって良くない!」というパターンがいつもの私のパターンだったのです

が皆さんの場合はどうでしょう(笑)

もともと人間の脳は不快を嫌いますから、禁煙のことを「不快」だと認識すれば、脳は

「今、急いでやめる必要なくない?」「これって余計身体に悪いよ」などと言い、やめ

る方向に仕向けてきます。そして、大体変化することを難しい・できないと思い込んで

いる人の場合、変化することは不快でしょうから、脳は私たちを不快にさせないために

そういうふうに仕向けるというわけですね。

 

行動には必ず利得がある

人間の行動の目的には、必ず自分にとっての利得があります。

いいことないのに続けている行動なんて本当はないのです。

例えばタバコでいうと、やめない目的はタバコが好きだからだけが理由じゃなかったり

します。意識的にも無意識的にもその人なりの利得をもっていることが多いのです。

例えば、リラックス効果や喫煙者同士の人間関係(コミュニケーション)や、自分を心

配してくれている人の存在なんかもそうでしょう(相手の関心や心配を引き出せる)

 

ダメな自分を再確認している可能性もある

「あはは~私(俺)っていつもこうだよ(笑)」

「またやめれなかった・・・いつも口だけでダメな奴だよ」

なんて自分に言っていませんか?「失敗する目的」がここにあることがあります。

え??と思われる方もおられるでしょうが、自分のことを「ダメな人間」「やりとげれ

ない人間」という低い自己認識をもっている人は結構多いんです。そして、わざわざ

「ダメな自分」を確認するために失敗するのです。失敗した後に「ほらね!」「やっぱ

り!」と思う人はそういう可能性もあるかもしれませんね。大体こういう思いこみは、

幼いころに自分が身につけた思い込みですが今からでも変えることを選択することは

可能です。変えないと勿体ないですよ~(笑)

さらに、「そういう自分(ダメな自分)だから受け入れられている」と心の奥底で思っ

ている人は、積極的に「聞いてよ~」と失敗した話を人にしているかもしれません。

別の例えでいうと、普段お金を持っていいない人が急に大金をもつと、なくなるのが早

いことが多いんです。なぜかというと、無意識下で大金を持っている自分は自分らしく

ないと思い込んでいるからです。なので、もし宝くじか何かで大が当たった人は是非意

識して、「このくらいのお金も価値が自分にはある」と言葉にしてみてください。思い

込みは言葉の繰り返しでできるので。

 

やめるには楽しむに限る。苦しいことはやめないに限る

◎まず始めに、やめたい事(もしくは始めたいこと)にチャレンジされる方は、

「~しなければならない」という言葉を使うのをやめてみましょう。

 この魔法の言葉は“したくないことをやらされている”と脳に認識させ、不快にさせる

 効果があります。ですから、是非「したい」という言葉を使ってみてください。

◎自分に「まあできるでしょう」「できるかもね」と声をかける

 無意識で「できない」と思い込んでいると、それを達成することが必要以上に大変に

 思えたりするものです。かといって、できないと思っているのに「絶対できる」と言

 い聞かせた所で心が抵抗してくるでしょう。

 失敗しても死にはしないのですから、リラックスして「できるんじゃない?」くらい

 の気持ちで(あまり重々しくない)取り組んでみましょう。

◎無理なくできそうな目標を立ててみるのもいいですね

 もし、人に相談するなら成功している人にしてくださいね!

 例えば、ダイエットでいうなら

 ・一日一個は好きなお菓子食べていい

 ・好きな物食べていいけど野菜から食べる(もしくは腹八分でやめる)

 もし新しい事を始める場合は

 ・友達と始める(同じ話題で話せることで余計に楽しめる)

 ・現実的にできそうな目標を立てる(やると決めた時はやる気の炎がメラメラしてい

  るので何でも出来そうになるのですが、あまりに高い理想を掲げると後で苦しく

  なってきます)

注意)禁煙だけは「本数減らす」でなく、完全にやめるからスタートしてください。

   なぜなら、「1日2本にし~よう」としたとします。すると、その2本がとても

   大切な2本になってしまい、タバコの価値を上げてしまうんですね。

   タバコは依存性があるのでかえってやめにくくなる傾向にあります。

◎すべては「予定どおり」

 先ほど説明したとおり、脳は「不快」だと感じたら、今までの自分に引き戻そうとし

 てきます。失敗したことがあることに取り組む人はやりやすいですよ。だってどうな

 るのかが予測できるんですもん。

 最後、私が禁煙を成功させたときも、勿論いつもと同じ状態になったんです。

 ただ、その症状に対する私の受け止め方が違っただけ。

 「はいはい、そうくるでしょうね。分かってますよ~。大分ニコチンが減ってきて

 焦ってるみたいですね(私がでなくニコチンが)私に吸わせたくてそうしてるんで

 しょうが、3週間であなたがいなくなるのは知っているので存分に焦ってください」

 勿論自分にも「いつ吸ってもいいけど「今」は吸うのをやめてみるか」

 と繰り返していたらやめていた(笑)

 何かをやめる時、始める時、何か自分にとってそれをやめさせようという挑戦が来ま

 す。もうこれも「やめる」前提でのお約束です。それも含めて楽しんでみましょう。

◎失敗してもあなたはダメな人間ではない

 もし失敗しても自分のことを「ほらやっぱり自分は・・・」と言わないこと。

 ガッカリしたらその気持ちを「残念だったね。ガッカリしたね」と受け止めてあげる

 こと。これが一番大切。

「できなかった」のではなく「今回はやらない選択をした」だけ。

 また今度したくなったらすればいいのです。

 皆さん人には厳しいことを言えない人でも意外と自分には手厳しいので、自分を責め

 る人が多いんですが(私も含め)その言葉が、あなたのその完全に勘違いしている

「ダメ人間」「できない人間」という思い込みを強めていきます。

 それはダメな人間としての人生を歩く手助けを自分でするようなもんです。

 今回はやめておこう。次回またやりたくなったらやろう。それでいいのです。

◎大体本当にやめる必要があるのか

 タバコを吸っていようが、太っていようがなんだろうが、「自分はこれでいいんだ」

 と心から思っている人で素敵な人は沢山いると思います。“やめれない自分には価値が

 ない” “みんなが言うから” “みんなそうしているから” などというくだらない理由

 でやめる必要もないと思います。したいことをする。平均寿命は90歳にどんどん近

 づいてますが、それでもあと残りの人生何年ですか?言うなれば、明日生きている補

 償もないのが現実です。折角の一回の人生思い残すことができるだけないよう、エ

 ネルギーは我慢するためではなく楽しむためにつかってくださいね。

 勿論本当はやめたいのに自分はダメだから出来ないということなら何回もチャレンジ

 することを楽しめばいいと思います。

※私は毛穴と歯茎が黒ずむのが嫌でタバコをやめましたが、約400種類の化学物質と

 約200種もの麻薬作用物質が入っているそうなので、生きがいでなければ禁煙をオ

 ススメします(笑)

 

長くなりました。最後まで読んでくださりありがとうございます♡